■ 夏にたびだつ (6)
傾いてきた日の光が、二つ並んだ影を長くしてゆく。
レイナはレンガの古町をゆっくりと歩く。その後ろをやや距離をとってユウリがついて行く。あたりに他の人影はない。
「本当のことを申し上げれば、だんな様があなたから剣を取り上げられたとき、ぼくはほっとしたんです」
先を歩くレイナの背中に、ユウリは言った。
レイナが立ち止まってふり返る。ユウリも立ち止まった。
「これであなたは危険な道を選ぶことはなくなると。あのまま剣の修行を続けていたら、命を縮めてしまう気がしていたので。あなたには、平穏に暮らしていただきたかった」
「うん」
「しかし、剣を取り上げられ抜け殻のようになっているあなたをみているのはつらかった。いくら平穏に暮らしていても、あれでは意味がないと思いました。あなたには、剣という生きがいが必要だと」
「うん」
「ご自分で剣を取り戻したあなたがゆるしてくださるのなら、ぼくはどこまででもお供したいと思っています」
レイナはゆっくりとユウリのほうへと向き直る。
透き通るような笑顔でユウリを見た。
「……ありがとう、ユウリ、本当にありがとう。きみが一緒に来てくれるなら心強い。一緒にこの国のためにできることをしよう」
その言葉を聞いたユウリもかすかにほほえんだ。
------
丘の上に広がる空に、みるみる積乱雲がふえてゆくのがわかった
あたりが暗くなってくる。
二人で大きな庇の下まで駆けて行った。
たどりついたとほぼ同時に雨が降り出す。
「雨がやんだら戻りましょう」
ユウリが帰宅を促す。
「あまり気が進まないな……。兄上に会いたくない」
レイナは渋い顔をしてみせた。
「きちんと出立のご挨拶をしないと」
「それはそうだけど……。やっぱり今日はどこかで宿をとって頭を冷やすよ」
「宿代はお貸しできませんよ」
「ケチ。野宿しろって言うのかい」
「そうではありません……ぼくも持ち合わせがないんです」
「なんだ、そういうことか」
レイナは思わず吹き出した。
ユウリも笑っている。
遠くで雷鳴が聞こえた。
「ああ、しばらくここで足止めですね」
ユウリがため息混じりにつぶやいた。
「私が頭を冷やすにはちょうどいいか」
空を稲光が切り裂くのを、二人で長いこと眺めていた。
あまりにも鮮やかなその光は、忘れられない夏の記憶としてレイナの脳裏にくっきりと刻まれた。
そして、この光景がユウリにとっても印象深いものであってほしいと、思った。
(第三章へすすむ→)
(もくじへもどる)
レイナはレンガの古町をゆっくりと歩く。その後ろをやや距離をとってユウリがついて行く。あたりに他の人影はない。
「本当のことを申し上げれば、だんな様があなたから剣を取り上げられたとき、ぼくはほっとしたんです」
先を歩くレイナの背中に、ユウリは言った。
レイナが立ち止まってふり返る。ユウリも立ち止まった。
「これであなたは危険な道を選ぶことはなくなると。あのまま剣の修行を続けていたら、命を縮めてしまう気がしていたので。あなたには、平穏に暮らしていただきたかった」
「うん」
「しかし、剣を取り上げられ抜け殻のようになっているあなたをみているのはつらかった。いくら平穏に暮らしていても、あれでは意味がないと思いました。あなたには、剣という生きがいが必要だと」
「うん」
「ご自分で剣を取り戻したあなたがゆるしてくださるのなら、ぼくはどこまででもお供したいと思っています」
レイナはゆっくりとユウリのほうへと向き直る。
透き通るような笑顔でユウリを見た。
「……ありがとう、ユウリ、本当にありがとう。きみが一緒に来てくれるなら心強い。一緒にこの国のためにできることをしよう」
その言葉を聞いたユウリもかすかにほほえんだ。
------
丘の上に広がる空に、みるみる積乱雲がふえてゆくのがわかった
あたりが暗くなってくる。
二人で大きな庇の下まで駆けて行った。
たどりついたとほぼ同時に雨が降り出す。
「雨がやんだら戻りましょう」
ユウリが帰宅を促す。
「あまり気が進まないな……。兄上に会いたくない」
レイナは渋い顔をしてみせた。
「きちんと出立のご挨拶をしないと」
「それはそうだけど……。やっぱり今日はどこかで宿をとって頭を冷やすよ」
「宿代はお貸しできませんよ」
「ケチ。野宿しろって言うのかい」
「そうではありません……ぼくも持ち合わせがないんです」
「なんだ、そういうことか」
レイナは思わず吹き出した。
ユウリも笑っている。
遠くで雷鳴が聞こえた。
「ああ、しばらくここで足止めですね」
ユウリがため息混じりにつぶやいた。
「私が頭を冷やすにはちょうどいいか」
空を稲光が切り裂くのを、二人で長いこと眺めていた。
あまりにも鮮やかなその光は、忘れられない夏の記憶としてレイナの脳裏にくっきりと刻まれた。
そして、この光景がユウリにとっても印象深いものであってほしいと、思った。
(第三章へすすむ→)
(もくじへもどる)
スポンサーサイト
■ 夏にたびだつ (5)
「……やはり入隊なさるんですか」
しばらく無言で景色を眺めていたレイナに、ユウリがぽつりと問いかけた。
「そうするつもりだよ。明日にでも志願書を出しに行く。受理してもらえるかはわからないけど」
レイナは眼下の都のほうに視線を貼りつけたまま言った。
「もう決めてしまわれたのですね」
「うん。私だって武門アレイス家の一員だ。非力かもしれないけど、この危急のときに何もしないで家に閉じこもっているなんてできないよ。第一線で活躍したいなんて大それたことを考えているわけじゃない。残念ながら実践経験はまるでないからね。でも炊き出しの手伝いでも物資を運ぶ手伝いでも何でもいいんだ。少しでも手伝えることがあるならぜひやらせてほしい、それだけだ」
そこまで言うと、レイナはユウリのほうに視線を移した。
ゆずらない、という強い意志をそのまなざしに宿していた。
ユウリはしばらく黙ったまま、レイナの視線を受け止めていた。
レイナも静かにユウリの言葉を待つ。
やがてふうっとひとつため息をついたユウリは、少し困ったような顔をして、
「レイナさまのお考えはよくわかりました。あなたが入隊されるのでしたら、ぼくもお供させていただきます」
と言ってきた。
「一緒にきてくれるの」
「レイナさまが行かれるところはどこへでもお供すると申し上げたはずです」
「本当にいいのかい?いやなら来なくていいんだよ、無理にまきこむのは気が引ける」
レイナはユウリの表情をうかがった。
もちろん一緒に来て欲しいというのがレイナの本心だが、強制はしたくない。今のユウリには、兄に仕えてアレイス家に残るという道もある。
ユウリの顔は、少し寂しげな表情をしたように見えた。
「少し歩こうか」
レイナはユウリを促して歩きはじめた。
(つづきへ→)
しばらく無言で景色を眺めていたレイナに、ユウリがぽつりと問いかけた。
「そうするつもりだよ。明日にでも志願書を出しに行く。受理してもらえるかはわからないけど」
レイナは眼下の都のほうに視線を貼りつけたまま言った。
「もう決めてしまわれたのですね」
「うん。私だって武門アレイス家の一員だ。非力かもしれないけど、この危急のときに何もしないで家に閉じこもっているなんてできないよ。第一線で活躍したいなんて大それたことを考えているわけじゃない。残念ながら実践経験はまるでないからね。でも炊き出しの手伝いでも物資を運ぶ手伝いでも何でもいいんだ。少しでも手伝えることがあるならぜひやらせてほしい、それだけだ」
そこまで言うと、レイナはユウリのほうに視線を移した。
ゆずらない、という強い意志をそのまなざしに宿していた。
ユウリはしばらく黙ったまま、レイナの視線を受け止めていた。
レイナも静かにユウリの言葉を待つ。
やがてふうっとひとつため息をついたユウリは、少し困ったような顔をして、
「レイナさまのお考えはよくわかりました。あなたが入隊されるのでしたら、ぼくもお供させていただきます」
と言ってきた。
「一緒にきてくれるの」
「レイナさまが行かれるところはどこへでもお供すると申し上げたはずです」
「本当にいいのかい?いやなら来なくていいんだよ、無理にまきこむのは気が引ける」
レイナはユウリの表情をうかがった。
もちろん一緒に来て欲しいというのがレイナの本心だが、強制はしたくない。今のユウリには、兄に仕えてアレイス家に残るという道もある。
ユウリの顔は、少し寂しげな表情をしたように見えた。
「少し歩こうか」
レイナはユウリを促して歩きはじめた。
(つづきへ→)
■ 夏にたびだつ (4)
「これからどうされるおつもりなんです?」
レイナから三歩ほどの位置でゆっくりと腰を下ろしたユウリが静かに訊ねてきた。
ユウリの顔からは早くも汗はひき、いつもどおりの淡白な表情になっている。整った造作もあわさって、血の通わぬ人形のように思えた。
瞳の色は、まだわずかに先程の青の色味を残している。
瞳が青くなるのは、アニミノードと呼ばれる技能を持っている証。
アニミノードは万物の気配を感じ取り、それを増幅、減弱させる技術のことをいう。
つまり人、動物、植物から石、土、水、空気にいたるまで、この世に存在するあらゆるものにはそれぞれ特有のエネルギーがあり、そのエネルギーを引き出したり、逆に閉じ込めたりすることで、いわゆる超常現象のようなものを引き起こすのである。たとえば、遠くにあるものを手を触れずに異動させたり、火の気の無いところに火をおこしたり、特有のエネルギーを識別することで探し物をしたり。
そういった超常の力を操る技能がアニミノード。
この力を使うと、使用者の瞳の色が青く変化する。強い力を使うと、それに比例して青は鮮やかさと濃さを増す。
ラスファイドでは、全てのひとにこの能力はあるとされている。ただその力の強さにはかなりの個人差があり、中には本能的のこの能力を使うのに長けたものがいて、何の訓練も受けなくても難なく念動力を使ったりすることがあるが、逆にかなり訓練してもほとんど力を発揮しない者もいる。
士官学校では、全ての学生が少なくとも一度はこのアニミノードの専門的な訓練を受けることになる。
戦闘において非常に役立つ能力であるため、個人個人の能力に応じてできる限りの技能を修得できるようにする。
レイナはアニミノードに関してはごく平凡な才能しか持っていなかった。卓越した剣技と比べるとあまり人に誇れるようなものではない。
そんなレイナに対して、ユウリはというと、かなり恵まれた才能を持っているようである。
人前ではあまり力を見せようとはしないが、レイナの身に危険が及びそうになったときに、その力を使って助けてくれたことが過去に何度かある。
今もきっとそうだろう。
急に姿を消したレイナを見つけるために、普段は使わぬアニミノードを駆使して都中を探したのだろう。この広い都で、たくさんの人の中からレイナの持つ固有のエネルギーだけを探知するのは容易ではない。
レイナを見つけたときのユウリの瞳は真っ青だった。
あれほどの青を、レイナは士官学校でかなり優秀な技能を修得した学友たちにさえ見出したことはない。
「ユウリ、きみってやっぱり相当なアニミノードを持っているね」
「何です?急に」
「真っ青だったよ、さっきのきみの瞳」
レイナのその言葉に、ユウリは片手を顔に近づけた。レイナから視線をそらし、手で顔を隠すようにする。
「見間違いでしょう」
「苦しい言い逃れだな。なにも私にまで隠さなくてもいいだろう。誰にも言わないよ。きみが秘密にしていたいなら」
ユウリは何も答えなかった。
レイナはユウリのほうへと歩み寄って、傍らに座った。
ユウリの肩に手を置く。
「さがしにきてくれてありがとう」
そう言ってレイナが微笑みかけると、ユウリの表情も少しだけ和む。
「実は困ってたんだ。急に飛び出してきてしまったから、持ち合わせがなくて。少し貸してもらえないかな。近いうちに必ず返すから」
手を合わせてたのむレイナに、ユウリはゆっくり首を振る。
「戻りましょう、屋敷に」
「戻れないよ」
「レイナさま」
「兄上に啖呵をきってしまったんだ、すぐ戻ったらかっこ悪いじゃないか」
レイナは弱ったという顔をしておどけてみせた。
つられてユウリもわずかに表情を崩す。
瞳の色は、いつもの漆黒に戻っていた。
(つづきへ→)
レイナから三歩ほどの位置でゆっくりと腰を下ろしたユウリが静かに訊ねてきた。
ユウリの顔からは早くも汗はひき、いつもどおりの淡白な表情になっている。整った造作もあわさって、血の通わぬ人形のように思えた。
瞳の色は、まだわずかに先程の青の色味を残している。
瞳が青くなるのは、アニミノードと呼ばれる技能を持っている証。
アニミノードは万物の気配を感じ取り、それを増幅、減弱させる技術のことをいう。
つまり人、動物、植物から石、土、水、空気にいたるまで、この世に存在するあらゆるものにはそれぞれ特有のエネルギーがあり、そのエネルギーを引き出したり、逆に閉じ込めたりすることで、いわゆる超常現象のようなものを引き起こすのである。たとえば、遠くにあるものを手を触れずに異動させたり、火の気の無いところに火をおこしたり、特有のエネルギーを識別することで探し物をしたり。
そういった超常の力を操る技能がアニミノード。
この力を使うと、使用者の瞳の色が青く変化する。強い力を使うと、それに比例して青は鮮やかさと濃さを増す。
ラスファイドでは、全てのひとにこの能力はあるとされている。ただその力の強さにはかなりの個人差があり、中には本能的のこの能力を使うのに長けたものがいて、何の訓練も受けなくても難なく念動力を使ったりすることがあるが、逆にかなり訓練してもほとんど力を発揮しない者もいる。
士官学校では、全ての学生が少なくとも一度はこのアニミノードの専門的な訓練を受けることになる。
戦闘において非常に役立つ能力であるため、個人個人の能力に応じてできる限りの技能を修得できるようにする。
レイナはアニミノードに関してはごく平凡な才能しか持っていなかった。卓越した剣技と比べるとあまり人に誇れるようなものではない。
そんなレイナに対して、ユウリはというと、かなり恵まれた才能を持っているようである。
人前ではあまり力を見せようとはしないが、レイナの身に危険が及びそうになったときに、その力を使って助けてくれたことが過去に何度かある。
今もきっとそうだろう。
急に姿を消したレイナを見つけるために、普段は使わぬアニミノードを駆使して都中を探したのだろう。この広い都で、たくさんの人の中からレイナの持つ固有のエネルギーだけを探知するのは容易ではない。
レイナを見つけたときのユウリの瞳は真っ青だった。
あれほどの青を、レイナは士官学校でかなり優秀な技能を修得した学友たちにさえ見出したことはない。
「ユウリ、きみってやっぱり相当なアニミノードを持っているね」
「何です?急に」
「真っ青だったよ、さっきのきみの瞳」
レイナのその言葉に、ユウリは片手を顔に近づけた。レイナから視線をそらし、手で顔を隠すようにする。
「見間違いでしょう」
「苦しい言い逃れだな。なにも私にまで隠さなくてもいいだろう。誰にも言わないよ。きみが秘密にしていたいなら」
ユウリは何も答えなかった。
レイナはユウリのほうへと歩み寄って、傍らに座った。
ユウリの肩に手を置く。
「さがしにきてくれてありがとう」
そう言ってレイナが微笑みかけると、ユウリの表情も少しだけ和む。
「実は困ってたんだ。急に飛び出してきてしまったから、持ち合わせがなくて。少し貸してもらえないかな。近いうちに必ず返すから」
手を合わせてたのむレイナに、ユウリはゆっくり首を振る。
「戻りましょう、屋敷に」
「戻れないよ」
「レイナさま」
「兄上に啖呵をきってしまったんだ、すぐ戻ったらかっこ悪いじゃないか」
レイナは弱ったという顔をしておどけてみせた。
つられてユウリもわずかに表情を崩す。
瞳の色は、いつもの漆黒に戻っていた。
(つづきへ→)
■ 夏にたびだつ (3)
全体が大きな斜面に貼りつくように作られているラスファイドの都。
町は上のほうから形成されていき、時が経つにつれて古くなる建物を捨て去るように下方へと広がり、町の中心も徐々に斜面を下っていった。
王宮も以前は斜面の一番上にあったが、老朽化を理由に斜面の中腹へと移っている。
レイナの生家であるアレイス家の邸宅も、王宮から程近い場所にある。周りはみな有力貴族が邸宅を構える界隈。そこからさらに下ると、繁華街や、一般市民の住宅地が広がっている。そのあたりは多くの人が行き交う活気にあふれたところである。
対して、坂の上に残る古い町並は、かつての賑わいをわずかに偲ばせる色褪せたレンガの壁が連なり、静かではあるが重厚な空気を感じる。
人影の少ない古町は、物思いにふけるにはちょうど良い場所。
レイナはその古町のレンガの壁に背中を預けて座っている。
小高い丘のようになっている地点で、目の前は五歩ほど進めばほぼ垂直な切り立った崖。
眼下に都を一望できるこの場所は、レイナの一番気に入っているところだ。
学生時代、講義のあとによく立ち寄った。
何をするでもなく、この場所に座って景色を眺める。
傍らにはいつもユウリがいた。
共に景色を眺め、ゆっくりと過ぎる時間を楽しんだものだ。
もう戻らない、なつかしい日々。
レイナはふいに空を見上げた。
夏のつき抜けるような鮮やかな青空がひろがっている。
この空の色だけは、あの頃と変わらない。
ずっと見つめているとすいこまれてしまいそうな錯覚に陥る。
追憶の中に引き戻されていくような、奇妙な浮遊感。
悪くない。
しばらく空を眺めていると、遠くから足音が聞こえてきた。
石畳を蹴るその音は、軽快で小気味よい。
少しずつレイナのいるところへと近づいてくる。
その音がはっきりとしてくるにつれて、レイナの意識も現実へと戻ってくる。
レイナにはすぐに足音の主がだれかわかった。
こんな場所までやってくる者はレイナの思いつく限りひとりだけ。
ここは通りから外れた古い民家の、さらに裏手にいりくんだ場所で、手入れされずに放置され、雑草の生い茂る狭い通路を通らなければ辿りつけない。今では空き家だらけになっている古町にあって、めったに人の出入りするような場所ではない。
足音はレイナから三歩ほどの位置で止まった。
「さがしました。ここにいらしたんですね」
予想通りのユウリの声。穏やかな声。
レイナが見やると、ユウリは珍しく額にうっすらと汗を浮かべている。
どういう鍛錬の仕方をしているのか、普段はあまり汗をかかない。
レイナの姿が見えないので、方々をだいぶ探し回ってくれたのだろう。
そのことが、妙にうれしかった。でも、口にはしなかった。
目の前のユウリの瞳は、ラスファイドの都の上を今まさに覆っている、夏の空と同じ色をしている。その瞳がじっとこちらを見ていた。
すいこまれそうだった。
(つづきへ→)
町は上のほうから形成されていき、時が経つにつれて古くなる建物を捨て去るように下方へと広がり、町の中心も徐々に斜面を下っていった。
王宮も以前は斜面の一番上にあったが、老朽化を理由に斜面の中腹へと移っている。
レイナの生家であるアレイス家の邸宅も、王宮から程近い場所にある。周りはみな有力貴族が邸宅を構える界隈。そこからさらに下ると、繁華街や、一般市民の住宅地が広がっている。そのあたりは多くの人が行き交う活気にあふれたところである。
対して、坂の上に残る古い町並は、かつての賑わいをわずかに偲ばせる色褪せたレンガの壁が連なり、静かではあるが重厚な空気を感じる。
人影の少ない古町は、物思いにふけるにはちょうど良い場所。
レイナはその古町のレンガの壁に背中を預けて座っている。
小高い丘のようになっている地点で、目の前は五歩ほど進めばほぼ垂直な切り立った崖。
眼下に都を一望できるこの場所は、レイナの一番気に入っているところだ。
学生時代、講義のあとによく立ち寄った。
何をするでもなく、この場所に座って景色を眺める。
傍らにはいつもユウリがいた。
共に景色を眺め、ゆっくりと過ぎる時間を楽しんだものだ。
もう戻らない、なつかしい日々。
レイナはふいに空を見上げた。
夏のつき抜けるような鮮やかな青空がひろがっている。
この空の色だけは、あの頃と変わらない。
ずっと見つめているとすいこまれてしまいそうな錯覚に陥る。
追憶の中に引き戻されていくような、奇妙な浮遊感。
悪くない。
しばらく空を眺めていると、遠くから足音が聞こえてきた。
石畳を蹴るその音は、軽快で小気味よい。
少しずつレイナのいるところへと近づいてくる。
その音がはっきりとしてくるにつれて、レイナの意識も現実へと戻ってくる。
レイナにはすぐに足音の主がだれかわかった。
こんな場所までやってくる者はレイナの思いつく限りひとりだけ。
ここは通りから外れた古い民家の、さらに裏手にいりくんだ場所で、手入れされずに放置され、雑草の生い茂る狭い通路を通らなければ辿りつけない。今では空き家だらけになっている古町にあって、めったに人の出入りするような場所ではない。
足音はレイナから三歩ほどの位置で止まった。
「さがしました。ここにいらしたんですね」
予想通りのユウリの声。穏やかな声。
レイナが見やると、ユウリは珍しく額にうっすらと汗を浮かべている。
どういう鍛錬の仕方をしているのか、普段はあまり汗をかかない。
レイナの姿が見えないので、方々をだいぶ探し回ってくれたのだろう。
そのことが、妙にうれしかった。でも、口にはしなかった。
目の前のユウリの瞳は、ラスファイドの都の上を今まさに覆っている、夏の空と同じ色をしている。その瞳がじっとこちらを見ていた。
すいこまれそうだった。
(つづきへ→)
■ 夏にたびだつ (2)
ラスファイドと隣国との間に、不穏な空気がある。
そのことが、このところずっとレイナの心をとらえ続けていた。
屋敷内でじっとしている自分に疑問を感じて、悶々としてすごす日々。
それでも何とか折り合いをつけようとしつつあったが、先日偶然耳にしたことが、レイナを今回の行動へと駆り立てた。
国境近くに、隣国の軍現る。
情勢は一気に緊迫しつつあった。
------
ラスファイドは半島に突き出た小さな王国である。
北、南、西の三方を海に囲まれており、近海で水揚される海産物を商うことを主な収入源としている。
また豊富な鉱物資源も有しており、小さいながらも財政面は豊かな国である。
かといってラスファイドは安穏としていられるかといえば、決してそんなことなはない。
王国の東側は、広大な国土を有する大帝国アルカダイアと国境を接しているのである。アルカダイアと比べると、ラスファイドは爪の先ほどの小さな国土しか持ち合わせていない。
こんな立地にも関わらず、ラスファイドが帝国の侵略を免れ独立を保ってこられたのは、国境に沿って延々と続く、天にも届くと評されるほどの険しい山岳と、複雑に入り乱れる半島近海の海流の恩恵によるものだろう。
帝国は過去に何度か侵攻を試みたがことごとく失敗に終っている。
五十年ほど前に講和条約を結んでからはこれといった動きはみせていなかった。
それが、ここへきての突然の出兵。
今の帝国は、もしかしたらあの険しい山を攻略する秘策を手に入れたのかもしれない。
もしも大群が山を越えて押し寄せてきたら。
帝国とラスファイドとの兵力の差は、誰の目にも明らかだ。
帝国軍が山を越える前に手を打たなければ。
じっとしてはいられない。
この国のために、自分にできることをする。
平和に生きていたいから。
この国が好きだから。
(つづきへ→)
そのことが、このところずっとレイナの心をとらえ続けていた。
屋敷内でじっとしている自分に疑問を感じて、悶々としてすごす日々。
それでも何とか折り合いをつけようとしつつあったが、先日偶然耳にしたことが、レイナを今回の行動へと駆り立てた。
国境近くに、隣国の軍現る。
情勢は一気に緊迫しつつあった。
------
ラスファイドは半島に突き出た小さな王国である。
北、南、西の三方を海に囲まれており、近海で水揚される海産物を商うことを主な収入源としている。
また豊富な鉱物資源も有しており、小さいながらも財政面は豊かな国である。
かといってラスファイドは安穏としていられるかといえば、決してそんなことなはない。
王国の東側は、広大な国土を有する大帝国アルカダイアと国境を接しているのである。アルカダイアと比べると、ラスファイドは爪の先ほどの小さな国土しか持ち合わせていない。
こんな立地にも関わらず、ラスファイドが帝国の侵略を免れ独立を保ってこられたのは、国境に沿って延々と続く、天にも届くと評されるほどの険しい山岳と、複雑に入り乱れる半島近海の海流の恩恵によるものだろう。
帝国は過去に何度か侵攻を試みたがことごとく失敗に終っている。
五十年ほど前に講和条約を結んでからはこれといった動きはみせていなかった。
それが、ここへきての突然の出兵。
今の帝国は、もしかしたらあの険しい山を攻略する秘策を手に入れたのかもしれない。
もしも大群が山を越えて押し寄せてきたら。
帝国とラスファイドとの兵力の差は、誰の目にも明らかだ。
帝国軍が山を越える前に手を打たなければ。
じっとしてはいられない。
この国のために、自分にできることをする。
平和に生きていたいから。
この国が好きだから。
(つづきへ→)
■ 夏にたびだつ (1)
むせかえる緑、まぶしい日の光。
ラスファイドに短い夏が来た。
石畳の道には両脇に街路樹が立ち並んでいる。それは真上から照りつける太陽をさえぎり、ほんのわずかではあるがひんやりとした日陰を路の脇に作り出してくれる。
その道を、レイナはひとり、大きな歩幅ですたすたと歩いてゆく。
日傘を差すこともせず、日陰を選ぼうともせず、まっすぐに歩いた。
その歩き方は、自分の決めた目標に向かってまっすぐに進んでいこうとする気質、一度目標を狙い定めたらめったなことではわき目を振らないレイナの性格をよくあらわしている。
屋敷内で大切に大切に育てられた他家の貴族の令嬢たちにはあまりみられない意志の強さ。
生まれ持った気質に加え、幼少の頃から剣術の修練に励み、大勢の男子学生に混じって士官学校で学んだという経験が、レイナをより力強くしたように思える。
士官学校を卒業後、しばらくは屋敷でひっそりとした暮らしを送ってきた。兄から課せられた貴婦人らしくなるための訓練も気は進まないながらもこなしていた。
だが、それも今日限りになりそうだ。
レイナはつい先程、兄の前で自分の考えをぶちまけてきてしまった。
途中で制止されないようにと、ありったけの言葉を途切れることなく発し続けた。
全部発散してしまったあとは、レイナのあまりの饒舌に目を見開いて沈黙する兄を残して屋敷を出てきてしまった。
もう戻れないかもしれない、とは思ったが、悪い気分ではなかった。
白いシャツに麻のズボンというレイナの服装は、ラスファイドでは青年男子が良く纏う夏の装いである。レイナにとっては動きやすいかどうかというのが衣服を選ぶときの一番重要なこと。
淡い色の髪を、一本の三つ編みにしている。短く切りそろえてしまおうかと思ったが、せっかく背中まで伸ばしたのでもったいないと思い直してしばらく束ねておくことにした。
ズボンをはいたその姿は、快活そうなレイナをより活動的にみせている。
佩いている剣は、兄から取り戻した愛用の品。
これからは、この剣をたよりに生きねば。
レイナは柄を強く握り締めた。
(つづきへ→)
ラスファイドに短い夏が来た。
石畳の道には両脇に街路樹が立ち並んでいる。それは真上から照りつける太陽をさえぎり、ほんのわずかではあるがひんやりとした日陰を路の脇に作り出してくれる。
その道を、レイナはひとり、大きな歩幅ですたすたと歩いてゆく。
日傘を差すこともせず、日陰を選ぼうともせず、まっすぐに歩いた。
その歩き方は、自分の決めた目標に向かってまっすぐに進んでいこうとする気質、一度目標を狙い定めたらめったなことではわき目を振らないレイナの性格をよくあらわしている。
屋敷内で大切に大切に育てられた他家の貴族の令嬢たちにはあまりみられない意志の強さ。
生まれ持った気質に加え、幼少の頃から剣術の修練に励み、大勢の男子学生に混じって士官学校で学んだという経験が、レイナをより力強くしたように思える。
士官学校を卒業後、しばらくは屋敷でひっそりとした暮らしを送ってきた。兄から課せられた貴婦人らしくなるための訓練も気は進まないながらもこなしていた。
だが、それも今日限りになりそうだ。
レイナはつい先程、兄の前で自分の考えをぶちまけてきてしまった。
途中で制止されないようにと、ありったけの言葉を途切れることなく発し続けた。
全部発散してしまったあとは、レイナのあまりの饒舌に目を見開いて沈黙する兄を残して屋敷を出てきてしまった。
もう戻れないかもしれない、とは思ったが、悪い気分ではなかった。
白いシャツに麻のズボンというレイナの服装は、ラスファイドでは青年男子が良く纏う夏の装いである。レイナにとっては動きやすいかどうかというのが衣服を選ぶときの一番重要なこと。
淡い色の髪を、一本の三つ編みにしている。短く切りそろえてしまおうかと思ったが、せっかく背中まで伸ばしたのでもったいないと思い直してしばらく束ねておくことにした。
ズボンをはいたその姿は、快活そうなレイナをより活動的にみせている。
佩いている剣は、兄から取り戻した愛用の品。
これからは、この剣をたよりに生きねば。
レイナは柄を強く握り締めた。
(つづきへ→)
■ 春にあそぶ (7)
「腕を上げられたようですね」
あれ以来、ユウリは時折部屋を訪ねてくるようになった。必ず茶器を運んできて給仕をしてくれる。
ユウリの淹れてくれる紅茶は格別においしい。
どこで覚えたのか、ユウリはレイナ付きの女中たちより紅茶の扱いに詳しそうなそぶりを見せることがある。最初に淹れてもらったときなどは、いつも女中たちが持ってくるのとは違う茶葉を使ったのかと思ったほどに水色も香りも異なっていた。あとから聞いたらいつもと同じ茶葉だったという。それなのにユウリが淹れてくれるときだけ、紅茶の表面に金の輪ができているのは錯覚だろうか。
もしかしたらユウリだけの何か特別な秘法があるのかもしれない。
今日もいつもどおりの手際のよさで茶を用意している。
レイナは、新しい図案に取り組んでいた。
もうすぐ完成する。
大判の白いハンカチーフの周囲に施した刺繍。
数種類の緑色の糸を組み合わせて、丸い模様を連ねるように描き出してある。
「それは、どういった意匠なのですか」
紅茶を運んできたユウリが不思議そうに尋ねてきた。
「何に見える?」
「さて、葡萄かなにかでしょうか」
「不正解」
紅茶を口に運びながら、レイナはからかうような口調で言った。
「これは、みどりの首飾りなんだ」
「首飾り?」
「そう、ガラス細工のような、きれいなみどりの首飾り」
そう言うと、レイナはそのハンカチーフを広げて、ユウリの肩のあたりにあてがってみた。
「昔ね、こういうのをしている子を見たんだ。とってもきれいだった」
「どこでご覧になったのですか?」
「秘密」
レイナはいたずらを楽しむ子供のように笑った。
「さて、次は剣の模様でも刺繍して兄上に差し上げようかな」
「レイナさま、それはあまりに……」
「冗談だよ。そんな面倒なことはしない。刺繍はやっぱり苦手だからね、そんな抗議方法は時間がかかりすぎる。でも」
「でも?」
「兄上とは近いうちにきちんと話をするよ。兄上のお考えはごもっともだが、わたしにもわたしなりの考えがあるから。それを伝えておかなければ」
レイナはカップに残っていた紅茶を一気に飲み干した。
「おいしかった、ありがとう」
ユウリは黙ったまま、茶器の片づけを始める。
茶器が触れ合ってカチャ、カチャと音をたてているのを聞きながら、レイナは窓の外の景色をながめた。
季節は初夏へとうつろいつつある。
木々の葉が生い茂り、みどりが濃くなってゆく。
「ユウリ、もしわたしがこの家をでて別のところへ行くと言ったら、きみはどうする?」
音がやむ。片付けの手を止めたようだ。
少しの沈黙。
レイナは外を見たまま返事を待った。
「ぼくは、レイナさまが行かれるところでしたらどこへでもお供いたします」
ユウリは、大きくはないが、はっきりとした声でそう答えた。
それは、レイナ一番望んでいた答えだった。
「……ありがとう、ユウリ」
ユウリは窓辺に歩み寄ると、外の一点を指し示した。
「チョウが飛んでいますよ」
「ああ、ほんとだ」
遠くに、白と黒、二匹のチョウが飛んでいるのが見えた。
二重螺旋を描くように、ひらひら、ひらひら。
二人はしばらく黙ったまま、その光景を目に焼き付けていた。
(第二章へすすむ→)
(目次へもどる)
あれ以来、ユウリは時折部屋を訪ねてくるようになった。必ず茶器を運んできて給仕をしてくれる。
ユウリの淹れてくれる紅茶は格別においしい。
どこで覚えたのか、ユウリはレイナ付きの女中たちより紅茶の扱いに詳しそうなそぶりを見せることがある。最初に淹れてもらったときなどは、いつも女中たちが持ってくるのとは違う茶葉を使ったのかと思ったほどに水色も香りも異なっていた。あとから聞いたらいつもと同じ茶葉だったという。それなのにユウリが淹れてくれるときだけ、紅茶の表面に金の輪ができているのは錯覚だろうか。
もしかしたらユウリだけの何か特別な秘法があるのかもしれない。
今日もいつもどおりの手際のよさで茶を用意している。
レイナは、新しい図案に取り組んでいた。
もうすぐ完成する。
大判の白いハンカチーフの周囲に施した刺繍。
数種類の緑色の糸を組み合わせて、丸い模様を連ねるように描き出してある。
「それは、どういった意匠なのですか」
紅茶を運んできたユウリが不思議そうに尋ねてきた。
「何に見える?」
「さて、葡萄かなにかでしょうか」
「不正解」
紅茶を口に運びながら、レイナはからかうような口調で言った。
「これは、みどりの首飾りなんだ」
「首飾り?」
「そう、ガラス細工のような、きれいなみどりの首飾り」
そう言うと、レイナはそのハンカチーフを広げて、ユウリの肩のあたりにあてがってみた。
「昔ね、こういうのをしている子を見たんだ。とってもきれいだった」
「どこでご覧になったのですか?」
「秘密」
レイナはいたずらを楽しむ子供のように笑った。
「さて、次は剣の模様でも刺繍して兄上に差し上げようかな」
「レイナさま、それはあまりに……」
「冗談だよ。そんな面倒なことはしない。刺繍はやっぱり苦手だからね、そんな抗議方法は時間がかかりすぎる。でも」
「でも?」
「兄上とは近いうちにきちんと話をするよ。兄上のお考えはごもっともだが、わたしにもわたしなりの考えがあるから。それを伝えておかなければ」
レイナはカップに残っていた紅茶を一気に飲み干した。
「おいしかった、ありがとう」
ユウリは黙ったまま、茶器の片づけを始める。
茶器が触れ合ってカチャ、カチャと音をたてているのを聞きながら、レイナは窓の外の景色をながめた。
季節は初夏へとうつろいつつある。
木々の葉が生い茂り、みどりが濃くなってゆく。
「ユウリ、もしわたしがこの家をでて別のところへ行くと言ったら、きみはどうする?」
音がやむ。片付けの手を止めたようだ。
少しの沈黙。
レイナは外を見たまま返事を待った。
「ぼくは、レイナさまが行かれるところでしたらどこへでもお供いたします」
ユウリは、大きくはないが、はっきりとした声でそう答えた。
それは、レイナ一番望んでいた答えだった。
「……ありがとう、ユウリ」
ユウリは窓辺に歩み寄ると、外の一点を指し示した。
「チョウが飛んでいますよ」
「ああ、ほんとだ」
遠くに、白と黒、二匹のチョウが飛んでいるのが見えた。
二重螺旋を描くように、ひらひら、ひらひら。
二人はしばらく黙ったまま、その光景を目に焼き付けていた。
(第二章へすすむ→)
(目次へもどる)
■ 春にあそぶ (6)
「お元気になられたようで、ほっとしました」
レイナが紅茶も菓子もおおかた平らげたころ、黙って給仕をしていたユウリが口を開いた。
傍らに立つユウリの顔を見上げる。
「やっぱり、たまたま運んできたわけじゃなかったんだね」
「気づいておられましたか」
「このごろめったに顔を見せないくせに、急に来たら誰だって変に思うさ」
「それもそうですね」
ユウリはわずかに苦笑したような表情を見せた。
ユウリはあまり感情が表に出ない。表情の変化がごく小さいために、まわりの者にはわかりづらいようだ。もっとも、長い時間を共有してきたレイナには、わずかな変化でも十分に感じ取ることができるのでさほど気にはならないが。
「ねえ、そこ座ったら。少し話をするくらいの時間はあるでしょ」
レイナは椅子を指し示した。
「いえ、このままで」
「立ったままでいられると話しづらいんだ。目線は同じ高さのほうがいい。座って」
ユウリは少しばかり躊躇したが、レイナが譲らないのを見てとったのか、
「では、失礼して」
といっておとなしく椅子に座った。
------
「さきほど給仕場の前を通りかかりましたら、レイナさま付の女中がたから声をかけられました。最近お嬢様の元気がまるでない。お茶の時間も楽しくなさそうで、何をたずねても、自分たちには一向にお話にならない。どうしたものか困っている。それでぼくに、ちょっと様子を見てきてはくれないか、ということでしたので」
ユウリの視線は、卓の上に放り出されていた刺しかけの布地を見つめていた。
レイナはそれをつかむと、とっさに卓の下に隠した。
刺しかけの図案をみられるのは気がひけた。
「刺繍は、つまらないですか」
ユウリが静かに問うてきた。
「あまりはかどっていないようですね」
「……向いてないんだよ」
「レイナさまは活発に動き回るのがお好きでしたからね」
「……今もさ。剣の修行だったら喜んでするんだけどね」
「だんな様から止められているでしょう」
「そう、愛用の剣まで取り上げられたよ。もうこれからは必要ないってさ。ずっとがんばってきて、士官学校まででたのにな。だんだん体がなまっていくのが嫌だよ」
「これからは、貴婦人としてのたしなみも身につけなくては、というのがだんな様のお考えなのでしょう」
「……わかってる、兄上が心配して色々仕込もうとしてくれているのもわかってるさ。でも、生まれ持った性分というものがある。貴婦人らしくと言われても、どうもしっくりこなくてさ。父上は私のそういう性分をわかっていたから剣を教えてくれたんじゃないかと思うんだ。できれば続けたいんだけど、兄上は許してくれないだろうね」
庭を駆けまわる自分。
それを見守るきみ。
ユウリと共に過ごしたかけがえのない時間。
ずっと続けばよいのにと思ったあの日々。
いずれは終わりがくることはわかっていたけれど。
「ねえ、ユウリ。ときどきは顔を見せに来てくれないかな。きみも仕事と勉強で大変だろうけど、ぜんぜん来ないなんてずいぶん薄情じゃないか」
そう言われて、ユウリはわずかに表情を曇らせる。
申し訳ない、という意思表示のようである。
「レイナさまはだんな様の言いつけでたくさんのことに取り組んでいらっしゃるでしょう。お邪魔かと思って遠慮していたんです」
「よく言うよ。どうせ兄上があまりわたしと話をするなと言ったんだろう?わたしにあまり外の話を聞かせるなってさ」
「そのようなことは……」
「まあいいさ。毎日部屋に閉じこもって同じことばかりしていると気が滅入るんだ。剣の相手をしろなんて言わないからさ、たまには前みたいに話を聞いてよ。」
「ぼくなどで良いのでしたら」
「愚痴を言える相手なんて、ほかに思い浮かばない」
「それは光栄なことで」
あの春の庭。
きれいな、きみの後姿。
みどりの首飾りをしていたきみの、穏やかな顔。
いつまでも見ていたい。
見ていることができたなら……
(つづきへ→)
レイナが紅茶も菓子もおおかた平らげたころ、黙って給仕をしていたユウリが口を開いた。
傍らに立つユウリの顔を見上げる。
「やっぱり、たまたま運んできたわけじゃなかったんだね」
「気づいておられましたか」
「このごろめったに顔を見せないくせに、急に来たら誰だって変に思うさ」
「それもそうですね」
ユウリはわずかに苦笑したような表情を見せた。
ユウリはあまり感情が表に出ない。表情の変化がごく小さいために、まわりの者にはわかりづらいようだ。もっとも、長い時間を共有してきたレイナには、わずかな変化でも十分に感じ取ることができるのでさほど気にはならないが。
「ねえ、そこ座ったら。少し話をするくらいの時間はあるでしょ」
レイナは椅子を指し示した。
「いえ、このままで」
「立ったままでいられると話しづらいんだ。目線は同じ高さのほうがいい。座って」
ユウリは少しばかり躊躇したが、レイナが譲らないのを見てとったのか、
「では、失礼して」
といっておとなしく椅子に座った。
------
「さきほど給仕場の前を通りかかりましたら、レイナさま付の女中がたから声をかけられました。最近お嬢様の元気がまるでない。お茶の時間も楽しくなさそうで、何をたずねても、自分たちには一向にお話にならない。どうしたものか困っている。それでぼくに、ちょっと様子を見てきてはくれないか、ということでしたので」
ユウリの視線は、卓の上に放り出されていた刺しかけの布地を見つめていた。
レイナはそれをつかむと、とっさに卓の下に隠した。
刺しかけの図案をみられるのは気がひけた。
「刺繍は、つまらないですか」
ユウリが静かに問うてきた。
「あまりはかどっていないようですね」
「……向いてないんだよ」
「レイナさまは活発に動き回るのがお好きでしたからね」
「……今もさ。剣の修行だったら喜んでするんだけどね」
「だんな様から止められているでしょう」
「そう、愛用の剣まで取り上げられたよ。もうこれからは必要ないってさ。ずっとがんばってきて、士官学校まででたのにな。だんだん体がなまっていくのが嫌だよ」
「これからは、貴婦人としてのたしなみも身につけなくては、というのがだんな様のお考えなのでしょう」
「……わかってる、兄上が心配して色々仕込もうとしてくれているのもわかってるさ。でも、生まれ持った性分というものがある。貴婦人らしくと言われても、どうもしっくりこなくてさ。父上は私のそういう性分をわかっていたから剣を教えてくれたんじゃないかと思うんだ。できれば続けたいんだけど、兄上は許してくれないだろうね」
庭を駆けまわる自分。
それを見守るきみ。
ユウリと共に過ごしたかけがえのない時間。
ずっと続けばよいのにと思ったあの日々。
いずれは終わりがくることはわかっていたけれど。
「ねえ、ユウリ。ときどきは顔を見せに来てくれないかな。きみも仕事と勉強で大変だろうけど、ぜんぜん来ないなんてずいぶん薄情じゃないか」
そう言われて、ユウリはわずかに表情を曇らせる。
申し訳ない、という意思表示のようである。
「レイナさまはだんな様の言いつけでたくさんのことに取り組んでいらっしゃるでしょう。お邪魔かと思って遠慮していたんです」
「よく言うよ。どうせ兄上があまりわたしと話をするなと言ったんだろう?わたしにあまり外の話を聞かせるなってさ」
「そのようなことは……」
「まあいいさ。毎日部屋に閉じこもって同じことばかりしていると気が滅入るんだ。剣の相手をしろなんて言わないからさ、たまには前みたいに話を聞いてよ。」
「ぼくなどで良いのでしたら」
「愚痴を言える相手なんて、ほかに思い浮かばない」
「それは光栄なことで」
あの春の庭。
きれいな、きみの後姿。
みどりの首飾りをしていたきみの、穏やかな顔。
いつまでも見ていたい。
見ていることができたなら……
(つづきへ→)
■ 春にあそぶ (5)
「失礼いたします」
ユウリはそう言うと、手押車(カート)とともにゆっくりと部屋に入ってきた。
手押車の上には茶器がしつらえられている。
「ああ、もうそんな時間か。でもどうしたの、ユウリが持ってくるなんて」
刺繍の手習いの合間に茶を飲んで休憩するのは毎日のことだ。が、いつもはレイナ付の女中数人が交代で運んでくる。
「みなさんほかの仕事で手がふさがっているそうで。給仕場の前を通りかかったら、代わりに運んでくれと頼まれました」
ユウリは静かな声で淡々と話す。
久しぶりにまともに聞いたその声は、以前と変わらず穏やかで、レイナの気分を不思議と落ち着かせてくれる。
「たまにはいいでしょう、予想外の運び手が来るのも」
「まあ、そうだね」
ユウリが手際よく紅茶を注いでいくのを、レイナはじっと観察でもするように見ていた。
良い香りが部屋の中に広がる。
ユウリはレイナの視線には気づかない様子で、てきぱきと作業を進めていく。
ほどなく、紅茶と菓子がレイナの前に運ばれてきた。
白磁のカップに注がれた紅茶は、深い橙のような美しい水色をしている。光の具合で表面に金の輪ができる。いつもと違う茶葉なのだろうか。
きらきらと光る輪はとても印象的で美しい。
添えられている焼き菓子にはこんがりとした焼き目がついていて、上にはたっぷりと果実のジャムがのせてある。
レイナの好物だ。
「おいしそうだね」
レイナの顔がほころぶ。
それを見たユウリもわずかに口元でほほえんだ。
紅茶も菓子も、久々においしいと思った。
毎日運んでもらっているが、最近はおいしいのかどうかわからなくなっていた。
気持ちの問題だろう。
沈んだ気分で口にしても、おいしさをかんじとれなかったということなのだ。
ユウリが運んでくれたというだけで、こんなにおいしいと思うとは。
自分もずいぶんとげんきんなものだと、レイナは心の中で苦笑した。
(つづきへ→)
ユウリはそう言うと、手押車(カート)とともにゆっくりと部屋に入ってきた。
手押車の上には茶器がしつらえられている。
「ああ、もうそんな時間か。でもどうしたの、ユウリが持ってくるなんて」
刺繍の手習いの合間に茶を飲んで休憩するのは毎日のことだ。が、いつもはレイナ付の女中数人が交代で運んでくる。
「みなさんほかの仕事で手がふさがっているそうで。給仕場の前を通りかかったら、代わりに運んでくれと頼まれました」
ユウリは静かな声で淡々と話す。
久しぶりにまともに聞いたその声は、以前と変わらず穏やかで、レイナの気分を不思議と落ち着かせてくれる。
「たまにはいいでしょう、予想外の運び手が来るのも」
「まあ、そうだね」
ユウリが手際よく紅茶を注いでいくのを、レイナはじっと観察でもするように見ていた。
良い香りが部屋の中に広がる。
ユウリはレイナの視線には気づかない様子で、てきぱきと作業を進めていく。
ほどなく、紅茶と菓子がレイナの前に運ばれてきた。
白磁のカップに注がれた紅茶は、深い橙のような美しい水色をしている。光の具合で表面に金の輪ができる。いつもと違う茶葉なのだろうか。
きらきらと光る輪はとても印象的で美しい。
添えられている焼き菓子にはこんがりとした焼き目がついていて、上にはたっぷりと果実のジャムがのせてある。
レイナの好物だ。
「おいしそうだね」
レイナの顔がほころぶ。
それを見たユウリもわずかに口元でほほえんだ。
紅茶も菓子も、久々においしいと思った。
毎日運んでもらっているが、最近はおいしいのかどうかわからなくなっていた。
気持ちの問題だろう。
沈んだ気分で口にしても、おいしさをかんじとれなかったということなのだ。
ユウリが運んでくれたというだけで、こんなにおいしいと思うとは。
自分もずいぶんとげんきんなものだと、レイナは心の中で苦笑した。
(つづきへ→)
■ 春にあそぶ (4)
一方、ユウリは屋敷で過ごすことの多くなったレイナの身辺警護任務を解かれ、代わりに屋敷うちのこまごまとした雑務を任されるようになっていた。
アレイス家の古参の執事とともに、来客への応対、出入りの商人との交渉、もろもろの事務処理などをこなしているようだ。
さらにはレイナの随伴でともに学校に通っていた時分にその才覚を認められ、卒業後は夜間大学へ進学した。今も仕事の合間に熱心に通っている様子である。仕事と学業に追われているらしいユウリは、レイナのところへはめったに顔を見せなくなった。
ユウリには、いずれアレイス家でわたしの片腕として力を発揮してもらいたいと思っている。
いつだったか兄がそんなことを言っていたのを思い出す。
自分はそのうち他家に嫁がされてしまうのだろう。
路は分かれてしまったのか。
自分と、あの子の路は。
レイナは長いため息をついた。
そのとき、扉をコンコンとたたく音がきこえた。
「……どうぞ」
物憂げな気分で返事をした。
ぎいっとゆっくり扉が開かれる。
そこに立っていたのは、ほかでもないユウリだった。
久しぶりに見るその姿は、思い出の中と変わらずきれいだと、レイナは思った。
(つづきへ→)
アレイス家の古参の執事とともに、来客への応対、出入りの商人との交渉、もろもろの事務処理などをこなしているようだ。
さらにはレイナの随伴でともに学校に通っていた時分にその才覚を認められ、卒業後は夜間大学へ進学した。今も仕事の合間に熱心に通っている様子である。仕事と学業に追われているらしいユウリは、レイナのところへはめったに顔を見せなくなった。
ユウリには、いずれアレイス家でわたしの片腕として力を発揮してもらいたいと思っている。
いつだったか兄がそんなことを言っていたのを思い出す。
自分はそのうち他家に嫁がされてしまうのだろう。
路は分かれてしまったのか。
自分と、あの子の路は。
レイナは長いため息をついた。
そのとき、扉をコンコンとたたく音がきこえた。
「……どうぞ」
物憂げな気分で返事をした。
ぎいっとゆっくり扉が開かれる。
そこに立っていたのは、ほかでもないユウリだった。
久しぶりに見るその姿は、思い出の中と変わらずきれいだと、レイナは思った。
(つづきへ→)
■ 春にあそぶ (3)
こののち、レイナの記憶に残る場面にはきまってユウリの存在があった。
ユウリが自分の遊び相手兼侍従として近在から引き取られてきたあの春の日から、その後の多くの時間を共有してきた。いわばもう一人の自分。かけがえのない半身。
しかしながらその半身と共に過ごす時間は、一年ほど前から激減した。
そのことがレイナの憂鬱を深めている。
心に穴が空いているような、空虚な気分のときが増えた。
------
レイナの父は、アレイス家は武門の家であるから女子でも剣の素養はあったほうが良いという考えの人物だったから、レイナも兄と同じように幼少のころから剣の扱い方を厳しく仕込まれた。体を動かすことが好きだったので、剣の修練は苦にしなかった。次第に兄と良い勝負ができるくらいに上達し、それを喜んだ父は、士官学校で学びたいというレイナの申し出を受け入れ、入学を許可してくれた。女子は数えるほどしか在籍していなかったが、レイナは仕官候補となるべく方々から集まった男子学生たちに混じって熱心に学んだ。
そうした時間のほとんどは、ユウリと共有してきたもの。
剣の修練はずっといっしょに行ってきた。よき練習相手であり好敵手。
士官学校にもレイナの身辺警護を兼ねて共に入学した。ユウリはレイナの傍らで同じ講義を受け、そろって優秀な成績を残した。
卒業後は二人で士官を目指したいとレイナはひそかに考えていた。
父なら好きにしろとゆるしてくれるかもしれないと思った。
だがその思いを打ち明けぬうちに、父は急逝した。
去年学校を修了したレイナは、父の死後アレイス家の当主となった兄の方針で、それまでなおざりにしていた貴婦人修行を課せられ、。行儀作法に手習いなど、屋敷に指導者を招いてたたきこまれる日々を送ることになった。
以前は頻繁にしていた外出もゆるされず、【大貴族の令嬢】としての窮屈な生活を強いられている。
(つづきへ→)
ユウリが自分の遊び相手兼侍従として近在から引き取られてきたあの春の日から、その後の多くの時間を共有してきた。いわばもう一人の自分。かけがえのない半身。
しかしながらその半身と共に過ごす時間は、一年ほど前から激減した。
そのことがレイナの憂鬱を深めている。
心に穴が空いているような、空虚な気分のときが増えた。
------
レイナの父は、アレイス家は武門の家であるから女子でも剣の素養はあったほうが良いという考えの人物だったから、レイナも兄と同じように幼少のころから剣の扱い方を厳しく仕込まれた。体を動かすことが好きだったので、剣の修練は苦にしなかった。次第に兄と良い勝負ができるくらいに上達し、それを喜んだ父は、士官学校で学びたいというレイナの申し出を受け入れ、入学を許可してくれた。女子は数えるほどしか在籍していなかったが、レイナは仕官候補となるべく方々から集まった男子学生たちに混じって熱心に学んだ。
そうした時間のほとんどは、ユウリと共有してきたもの。
剣の修練はずっといっしょに行ってきた。よき練習相手であり好敵手。
士官学校にもレイナの身辺警護を兼ねて共に入学した。ユウリはレイナの傍らで同じ講義を受け、そろって優秀な成績を残した。
卒業後は二人で士官を目指したいとレイナはひそかに考えていた。
父なら好きにしろとゆるしてくれるかもしれないと思った。
だがその思いを打ち明けぬうちに、父は急逝した。
去年学校を修了したレイナは、父の死後アレイス家の当主となった兄の方針で、それまでなおざりにしていた貴婦人修行を課せられ、。行儀作法に手習いなど、屋敷に指導者を招いてたたきこまれる日々を送ることになった。
以前は頻繁にしていた外出もゆるされず、【大貴族の令嬢】としての窮屈な生活を強いられている。
(つづきへ→)
■ 春にあそぶ (2)
あれは子供のころの、穏やかな春の庭でのこと。
おちつきなく走りまわっていたレイナは、少し離れたところに見知らぬ少年がいるのに気づいた。
ほっそりとした姿で、清楚な服装。
色とりどりの花が咲き乱れるなかを、少年の後姿はゆったりと動いていた。
我が家の庭には近在では珍しい草木がいくつもあるのだよ。
レイナは以前兄からそんなことを聞いていたから、少年はきっとそれを見に来たのだろうと何となく思った。他家の庭を見たことのないレイナにははたしてどれが珍しい草木なのかはよくわからなかったが、少年は熱心に庭の植物を眺めている様子で、きっと珍しいものが植えてあるのだろうと思わせた。
------
あとから考えてみれば、レイナの家はラスファイド王国の武門の名家で、都でも相当豪勢な邸宅を構えている大貴族であるから、屋敷の警備は厳重、人の出入りは常に監視されているような状態で、見知らぬ子供が気軽に庭を見に来るようなことはないということはすぐに思い至る。
しかしながらその時のレイナは、少年の自然に庭と調和し草木を眺める様子に何の不審も抱くことはなく、ただ美しい絵画を見るような心持で遠くから見ていたのであった。
しばらくその夢の中のような光景を眺めていると、ふいに少年がこちらをふりかえった。
ほんの一瞬、レイナと、少年の目が合う。
少年は庭に自分以外の人がいたことに少しばかり驚いた様子で、きょろきょろと周囲を見回したかと思うと、すぐうつむき加減になり、傍らの木の陰に姿を隠そうとした。背中越しに視線だけでそっとこちらを伺うようにしている少年の首筋に、淡いみどりの影がいくつも連なるようにおちてゆらめく。
あの子、まるでガラス細工の首飾りをしているみたいだ。
ゆれ動くみどりの影の幻想的な佇まいに、レイナはしばらくの間見入っていた。
------
それからほどなくして、レイナの父が庭に姿をみせ、少年をレイナの前に連れてきた。
レイナ、この子はユウリというんだ。今日からこの家で暮らすことになった。仲良くするのだよ。
そう紹介された少年は、うつむきがちだった顔を上げると、ほんのすこしだけほほえんだ。
(つづきへ→)
おちつきなく走りまわっていたレイナは、少し離れたところに見知らぬ少年がいるのに気づいた。
ほっそりとした姿で、清楚な服装。
色とりどりの花が咲き乱れるなかを、少年の後姿はゆったりと動いていた。
我が家の庭には近在では珍しい草木がいくつもあるのだよ。
レイナは以前兄からそんなことを聞いていたから、少年はきっとそれを見に来たのだろうと何となく思った。他家の庭を見たことのないレイナにははたしてどれが珍しい草木なのかはよくわからなかったが、少年は熱心に庭の植物を眺めている様子で、きっと珍しいものが植えてあるのだろうと思わせた。
------
あとから考えてみれば、レイナの家はラスファイド王国の武門の名家で、都でも相当豪勢な邸宅を構えている大貴族であるから、屋敷の警備は厳重、人の出入りは常に監視されているような状態で、見知らぬ子供が気軽に庭を見に来るようなことはないということはすぐに思い至る。
しかしながらその時のレイナは、少年の自然に庭と調和し草木を眺める様子に何の不審も抱くことはなく、ただ美しい絵画を見るような心持で遠くから見ていたのであった。
しばらくその夢の中のような光景を眺めていると、ふいに少年がこちらをふりかえった。
ほんの一瞬、レイナと、少年の目が合う。
少年は庭に自分以外の人がいたことに少しばかり驚いた様子で、きょろきょろと周囲を見回したかと思うと、すぐうつむき加減になり、傍らの木の陰に姿を隠そうとした。背中越しに視線だけでそっとこちらを伺うようにしている少年の首筋に、淡いみどりの影がいくつも連なるようにおちてゆらめく。
あの子、まるでガラス細工の首飾りをしているみたいだ。
ゆれ動くみどりの影の幻想的な佇まいに、レイナはしばらくの間見入っていた。
------
それからほどなくして、レイナの父が庭に姿をみせ、少年をレイナの前に連れてきた。
レイナ、この子はユウリというんだ。今日からこの家で暮らすことになった。仲良くするのだよ。
そう紹介された少年は、うつむきがちだった顔を上げると、ほんのすこしだけほほえんだ。
(つづきへ→)
■ 春にあそぶ (1)
春の庭を、二匹のチョウが飛んでいる。
白いチョウと、黒いチョウ。
まるで戯れるようにらせんを描いて。
くるくる、くるくる。
はたはた、はたはた。
どこまでも、終わりのないような。
------
広大な庭は生命にあふれている。
瑞々しい緑と咲きそろう花々の、鮮やかな色彩と甘い香りに充たされて、蜜蜂や蝶がしきりと集まってくる。そんな景色のあいだを、かすかな風が吹いては消える。見上げると、空はうすい雲の面紗(ヴェール)をまとって、やや落ちついた青みをしている。
うつくしい、ラスファイドの春の景色。
それを凝縮したかのような、アレイス家の庭。
レイナはよく手入れされた草木の姿を窓辺からぼんやり眺めていた。
今のレイナにとっては、窓から見えるこの庭の景色が、外の気配を感じることのできる数少ないものであった。
屋敷の一室で、四角く切り取られた空と緑を眺めてばかりいた。
近頃はいつもこんな調子で、昼下がりの日課として課せられた刺繍の手習いは一向にはかどっていない。レイナの兄は貴婦人の嗜みだと言って熱心に勧めるが、レイナにはこのじっと椅子に座って行う細かい作業は性分に合わない。与えられた立派な裁縫道具は、宝の持ち腐れという言葉があまりに的確でやるせない。
レイナは元々活動的な性質だから、部屋に閉じこもっているよりも、屋外で体を動かすことを好む。だがその気質は落ち着きのなさとして兄の眼には欠点として写っているらしい。令嬢としてふさわしい振る舞いを身につけよ、と事あるごとに諭される。レイナは兄のその言動が自分の将来を心配してくれてのものであることはわかっている。だから多少の不満はあるものの、一応兄の期待に沿うように屋敷でおとなしくしているが、時折、裸足で飛び出して外を思いきり走りまわりたい衝動にかられるのも否定できない。
特に、ラスファイドと隣国との情勢に関する良くない噂を耳にしたときなどは、自分もラスファイドのために何かしなければ、と強い焦燥感に襲われて、とてもじっとしていられなくなる。良家の令嬢として静かな暮らしを送っていくには、レイナはあまりにも政治向きの情報に興味を持ちすぎている。今年のドレスの流行がどんなデザインなのかよりも、そのドレスを作るために隣国から輸入されてくる布地の価格が情勢不安により高騰しているという話題のほうに思考が向いてしまう。
そんなレイナを良く思ってはいないであろう兄は、レイナを世話する女中たちに、外の情報をなるべくレイナの耳には入れないようにと言い置いているらしい。新しい情報は入ってこなくなり、毎日刺繍やらなにやら同じことを繰り返す窮屈な暮らしが続いている。
そして何よりつらいのは、以前はいつも傍らにいて、共に遊び、共に学び、色々な話を聞いてくれた腹心の近習が、このところめっきり姿を見せていないことである。
これもきっと兄の差し金だろう。その者の口から外の情報がレイナに入ることを厭い、意図的に遠ざけているに違いない。
傍らの卓に放ってある布地には、二人の子供と、そのまわりを囲む花の刺繍が刺しかけのまま放置してある。楽しい記憶を題材にすればすこしは身が入るかもしれないと選んだ意匠だったが、どうやら逆効果だった。刺していると昔の楽しかったことを思い出してしまい、身が入らない。
刺繍を投げ出したあとは、物思いにふけってばかりいる。
庭で遊ぶ、わたしと、あの子。
周りには沢山の花が咲いていて。
私が笑うと、
あの子もかすかにほほえむ。
それはとてもきれいで、はかなくて。
ずっと見ていたかった。
またあの子と遊びたい。庭で、一緒に。
(つづきへ→)
白いチョウと、黒いチョウ。
まるで戯れるようにらせんを描いて。
くるくる、くるくる。
はたはた、はたはた。
どこまでも、終わりのないような。
------
広大な庭は生命にあふれている。
瑞々しい緑と咲きそろう花々の、鮮やかな色彩と甘い香りに充たされて、蜜蜂や蝶がしきりと集まってくる。そんな景色のあいだを、かすかな風が吹いては消える。見上げると、空はうすい雲の面紗(ヴェール)をまとって、やや落ちついた青みをしている。
うつくしい、ラスファイドの春の景色。
それを凝縮したかのような、アレイス家の庭。
レイナはよく手入れされた草木の姿を窓辺からぼんやり眺めていた。
今のレイナにとっては、窓から見えるこの庭の景色が、外の気配を感じることのできる数少ないものであった。
屋敷の一室で、四角く切り取られた空と緑を眺めてばかりいた。
近頃はいつもこんな調子で、昼下がりの日課として課せられた刺繍の手習いは一向にはかどっていない。レイナの兄は貴婦人の嗜みだと言って熱心に勧めるが、レイナにはこのじっと椅子に座って行う細かい作業は性分に合わない。与えられた立派な裁縫道具は、宝の持ち腐れという言葉があまりに的確でやるせない。
レイナは元々活動的な性質だから、部屋に閉じこもっているよりも、屋外で体を動かすことを好む。だがその気質は落ち着きのなさとして兄の眼には欠点として写っているらしい。令嬢としてふさわしい振る舞いを身につけよ、と事あるごとに諭される。レイナは兄のその言動が自分の将来を心配してくれてのものであることはわかっている。だから多少の不満はあるものの、一応兄の期待に沿うように屋敷でおとなしくしているが、時折、裸足で飛び出して外を思いきり走りまわりたい衝動にかられるのも否定できない。
特に、ラスファイドと隣国との情勢に関する良くない噂を耳にしたときなどは、自分もラスファイドのために何かしなければ、と強い焦燥感に襲われて、とてもじっとしていられなくなる。良家の令嬢として静かな暮らしを送っていくには、レイナはあまりにも政治向きの情報に興味を持ちすぎている。今年のドレスの流行がどんなデザインなのかよりも、そのドレスを作るために隣国から輸入されてくる布地の価格が情勢不安により高騰しているという話題のほうに思考が向いてしまう。
そんなレイナを良く思ってはいないであろう兄は、レイナを世話する女中たちに、外の情報をなるべくレイナの耳には入れないようにと言い置いているらしい。新しい情報は入ってこなくなり、毎日刺繍やらなにやら同じことを繰り返す窮屈な暮らしが続いている。
そして何よりつらいのは、以前はいつも傍らにいて、共に遊び、共に学び、色々な話を聞いてくれた腹心の近習が、このところめっきり姿を見せていないことである。
これもきっと兄の差し金だろう。その者の口から外の情報がレイナに入ることを厭い、意図的に遠ざけているに違いない。
傍らの卓に放ってある布地には、二人の子供と、そのまわりを囲む花の刺繍が刺しかけのまま放置してある。楽しい記憶を題材にすればすこしは身が入るかもしれないと選んだ意匠だったが、どうやら逆効果だった。刺していると昔の楽しかったことを思い出してしまい、身が入らない。
刺繍を投げ出したあとは、物思いにふけってばかりいる。
庭で遊ぶ、わたしと、あの子。
周りには沢山の花が咲いていて。
私が笑うと、
あの子もかすかにほほえむ。
それはとてもきれいで、はかなくて。
ずっと見ていたかった。
またあの子と遊びたい。庭で、一緒に。
(つづきへ→)
■ チョウの舞う場所で --もくじ--
--あらすじ--
辺境の小国ラスファイド。
貴族の家に生まれたレイナは、女ながら恵まれた剣才をもち、
それをたよりに生きたいと思っていた。
そしてかたわらには、
幼いときからそばいいてくれたかけがえのない半身がいた。
ずっと、一緒にいたいと思っていた。
けれど……
レイナは、憂鬱のなかにいた。
2009/02/12 終章:そしてまた、春 をUP 【完結しました】
---------
《第一章》
春にあそぶ (1)
春にあそぶ (2)
春にあそぶ (3)
春にあそぶ (4)
春にあそぶ (5)
春にあそぶ (6)
春にあそぶ (7)
《第二章》
夏にたびだつ (1)
夏にたびだつ (2)
夏にたびだつ (3)
夏にたびだつ (4)
夏にたびだつ (5)
夏にたびだつ (6)
《第三章》
秋にめざめる (1)
秋にめざめる (2)
秋にめざめる (3)
秋にめざめる (4)
秋にめざめる (5)
秋にめざめる (6)
秋にめざめる (7)
秋にめざめる (8)
秋にめざめる (9)
秋にめざめる (10)
《第四章》
冬にねむる (1)
冬にねむる (2)
冬にねむる (3)
冬にねむる (4)
冬にねむる (5)
冬にねむる (6)
冬にねむる (7)
冬にねむる (8)
《終章》
そしてまた、春
辺境の小国ラスファイド。
貴族の家に生まれたレイナは、女ながら恵まれた剣才をもち、
それをたよりに生きたいと思っていた。
そしてかたわらには、
幼いときからそばいいてくれたかけがえのない半身がいた。
ずっと、一緒にいたいと思っていた。
けれど……
レイナは、憂鬱のなかにいた。
2009/02/12 終章:そしてまた、春 をUP 【完結しました】
---------
《第一章》
春にあそぶ (1)
春にあそぶ (2)
春にあそぶ (3)
春にあそぶ (4)
春にあそぶ (5)
春にあそぶ (6)
春にあそぶ (7)
《第二章》
夏にたびだつ (1)
夏にたびだつ (2)
夏にたびだつ (3)
夏にたびだつ (4)
夏にたびだつ (5)
夏にたびだつ (6)
《第三章》
秋にめざめる (1)
秋にめざめる (2)
秋にめざめる (3)
秋にめざめる (4)
秋にめざめる (5)
秋にめざめる (6)
秋にめざめる (7)
秋にめざめる (8)
秋にめざめる (9)
秋にめざめる (10)
《第四章》
冬にねむる (1)
冬にねむる (2)
冬にねむる (3)
冬にねむる (4)
冬にねむる (5)
冬にねむる (6)
冬にねむる (7)
冬にねむる (8)
《終章》
そしてまた、春