■ 明け方の散歩道(1)
……ザザァ……ササァ……、ザザァ……
遠くにさざ波の音が聞こえる。
あたりの静けさが、波の音をこの小さな部屋にまで運んできている。
その音は、規則的なようで不規則、やさしいようで厳しい、自然のもたらす不可思議そのもの。
その音に、心を穏やかにするものもいれば、心かき乱されるものもいる。
部屋の片隅に据えられたベッドに横たわっていたトキは、さざ波の音が遠くでしているのに気づくと、苦しげに眉をよせながら、ゆっくりと目をひらいた。
開け放してあった窓からかすかな風が吹いてくる。
額、そして背中にしっとりと汗をかいているトキには、その風がやけにひんやりとかんじられた。
心臓の鼓動がいつもより速い。
ああ、きっとまた良くない夢を見ていたのだ。そう思った。
目覚めた瞬間に内容を忘れてしまったが、このけだるさは、夢の中でなにかに抗っていたであろう自分を容易に想像できてしまう。
おそらく昔の夢だろう。この町へ来る前の、重苦しい空気の中で暮らしていたころのこと。
記憶の奥底に押し込めて、厳重に蓋をしておきたいと思うその記憶を、不覚にも何かの拍子にひっぱりだしてきてしまうことがある。
トキは布団に顔をうずめて動悸が鎮まるのを待った。
意識してゆっくりとした呼吸を心がける。そして、遠くから聞こえるさざ波の音に耳をすませる。
そうしていれば、次第に心臓はいつもの動きを取り戻してゆく。
トキにとってさざ波の音は、自分を悪夢から現実へと引き戻してくれる不思議な波長をもっているものだ。
鼓動が平常に戻ったトキは、ふうっとひとつ大きな息を吐くと、ベッドから体を起こした。
部屋はまだ薄暗い。夜明けまではもうしばらく時間がありそうな気配だった。
トキはベッドを離れると、洗面台で顔を洗い、台所で水を一杯飲み干した。
簡単に着替えを済ませ、外へ出る。
清涼な空気を吸いこんで、ひとつ大きな伸びをしてから、海を目指して歩き出した。
さざ波の音のするほうへ。
(つづきへ→)
遠くにさざ波の音が聞こえる。
あたりの静けさが、波の音をこの小さな部屋にまで運んできている。
その音は、規則的なようで不規則、やさしいようで厳しい、自然のもたらす不可思議そのもの。
その音に、心を穏やかにするものもいれば、心かき乱されるものもいる。
部屋の片隅に据えられたベッドに横たわっていたトキは、さざ波の音が遠くでしているのに気づくと、苦しげに眉をよせながら、ゆっくりと目をひらいた。
開け放してあった窓からかすかな風が吹いてくる。
額、そして背中にしっとりと汗をかいているトキには、その風がやけにひんやりとかんじられた。
心臓の鼓動がいつもより速い。
ああ、きっとまた良くない夢を見ていたのだ。そう思った。
目覚めた瞬間に内容を忘れてしまったが、このけだるさは、夢の中でなにかに抗っていたであろう自分を容易に想像できてしまう。
おそらく昔の夢だろう。この町へ来る前の、重苦しい空気の中で暮らしていたころのこと。
記憶の奥底に押し込めて、厳重に蓋をしておきたいと思うその記憶を、不覚にも何かの拍子にひっぱりだしてきてしまうことがある。
トキは布団に顔をうずめて動悸が鎮まるのを待った。
意識してゆっくりとした呼吸を心がける。そして、遠くから聞こえるさざ波の音に耳をすませる。
そうしていれば、次第に心臓はいつもの動きを取り戻してゆく。
トキにとってさざ波の音は、自分を悪夢から現実へと引き戻してくれる不思議な波長をもっているものだ。
鼓動が平常に戻ったトキは、ふうっとひとつ大きな息を吐くと、ベッドから体を起こした。
部屋はまだ薄暗い。夜明けまではもうしばらく時間がありそうな気配だった。
トキはベッドを離れると、洗面台で顔を洗い、台所で水を一杯飲み干した。
簡単に着替えを済ませ、外へ出る。
清涼な空気を吸いこんで、ひとつ大きな伸びをしてから、海を目指して歩き出した。
さざ波の音のするほうへ。
(つづきへ→)
■ 明け方の散歩道(2)
今日のように早朝に目を覚ましてしまうことがときどきある。
そういうときは、もう一度眠ろうと思っても眠れないということを過去の経験から学んでいた。
悪夢の後の二度寝は、トキには不向きであるらしい。
そういうときは、散歩をするのもいつものこと。
海へ行って日の出を待つ。まぶしい光をながめたあとは、気分もだいぶすっきりする。
トキには、早朝に家を抜け出すことをとがめる者はいない。
気楽さと寂しさが同居する一人住まいの部屋からは、数分歩くだけで浜辺に行くことができた。
波音がだんだんと大きくなるのをかんじながら、ゆっくりと歩いてゆく。
防風林を通り抜けると、目の前に果てしない水の広がりが見えてくる。
空と海の境界線だけが、うっすらと橙に色づいている。
波が行きつ戻りつしているほかは、何の気配もかんじない。人も、鳥も、まだ姿を見せてはいないようだ。
暗い砂浜へおりて、やわらかいその感触を靴底で楽しむ。
さく、さくと音をたて、波打ち際を歩くトキの軌跡は、まれにあらわれる大きな波にさらわれ消えてゆく。
トキは足もとが濡れるのもかまわずに歩いた。
彼が今はいている靴は、この散歩のためだけに靴箱に入れてあるスニーカーで、普段学校へ通う時に使うものとは別のものだ。
濡れてもかまわない。家に戻ったら日光がよく当たる玄関先に立てかけておけば、学校から戻る夕刻には乾いているはずだ。
しばらく歩いているうちに、あたりが少し明るくなってきた。
もうじき夜明けだ。
トキはいつも日の出を見るときに定位置にしている、浜辺に唯一置かれたベンチを目指した。
そのベンチは浜の隅の、やや入り組んだ先にあり、周辺からは見えづらい位置にも関わらず、日の出を見るには最高の向きに据えられている。
トキのとっておきの場所だ。
(つづきへ→)
そういうときは、もう一度眠ろうと思っても眠れないということを過去の経験から学んでいた。
悪夢の後の二度寝は、トキには不向きであるらしい。
そういうときは、散歩をするのもいつものこと。
海へ行って日の出を待つ。まぶしい光をながめたあとは、気分もだいぶすっきりする。
トキには、早朝に家を抜け出すことをとがめる者はいない。
気楽さと寂しさが同居する一人住まいの部屋からは、数分歩くだけで浜辺に行くことができた。
波音がだんだんと大きくなるのをかんじながら、ゆっくりと歩いてゆく。
防風林を通り抜けると、目の前に果てしない水の広がりが見えてくる。
空と海の境界線だけが、うっすらと橙に色づいている。
波が行きつ戻りつしているほかは、何の気配もかんじない。人も、鳥も、まだ姿を見せてはいないようだ。
暗い砂浜へおりて、やわらかいその感触を靴底で楽しむ。
さく、さくと音をたて、波打ち際を歩くトキの軌跡は、まれにあらわれる大きな波にさらわれ消えてゆく。
トキは足もとが濡れるのもかまわずに歩いた。
彼が今はいている靴は、この散歩のためだけに靴箱に入れてあるスニーカーで、普段学校へ通う時に使うものとは別のものだ。
濡れてもかまわない。家に戻ったら日光がよく当たる玄関先に立てかけておけば、学校から戻る夕刻には乾いているはずだ。
しばらく歩いているうちに、あたりが少し明るくなってきた。
もうじき夜明けだ。
トキはいつも日の出を見るときに定位置にしている、浜辺に唯一置かれたベンチを目指した。
そのベンチは浜の隅の、やや入り組んだ先にあり、周辺からは見えづらい位置にも関わらず、日の出を見るには最高の向きに据えられている。
トキのとっておきの場所だ。
(つづきへ→)
■ 明け方の散歩道(3)
ベンチが見えてきたところで、トキはいつもと様子がちがうことに気づいた。
彼が座ろうとしているそのベンチに、先客がいたのだ。
ぽつんと一人、海を見ているらしい。
こんなことは今までなかった。
早朝散歩で人に会うこと自体が稀なのに、この人目につかない場所に置き去りにされたような古ぼけたベンチに人が座っているところなど、昼間の浜でも見たことがない。
トキはやや距離をおいたところからベンチに腰掛ける先客の背中をながめた。
少年のように見える。
年のころはトキとさほど変わらないような印象。
髪が海風でかすかにゆれている。
どうしたものかと思案していると、ベンチに座る先客がふいに振り向いた。
驚いたトキと、先客の目が合う。
トキが何を言うべきが考えていると、ベンチの少年が先に口をひらいた。
「ごめん、もしかして君の特等席なのかな、ここは」
そう言って、すまなそうな顔をする。
トキは首を横に振ってから、
「そんなことはないよ。誰が座っていもいいんだ、そのベンチは」
と答えた。
ベンチは公共のものだから、トキに占有権はない。
先客がいるのなら、ほかの場所へ行けばすむことだ。
そう思って立ち去るつもりだった。
トキのそういう気配を察したのか、目の前の少年はベンチから立ち上がるとトキのほうへ歩いてきた。
「でも、君はここで日の出を見ようとしてるんじゃないの」
トキの前に立った少年はさらに問う。
トキは何と言うべきか迷った。
しばらく沈黙していると、少年のほうがまた口をひらいた。
「ひとりで見るほうがいい?」
「え?」
「日の出を見るときはひとりがいいのかって聞いてるのさ」
「べつに、そんなことはないけど……」
いままで日の出を見るときに人と遭遇したことがなかったので、考えたことのないことだった。
しかしながら、どうしてもひとりで見たいという感覚はない。
「それなら、ここでいっしょに見ようよ」
少年はトキに言うと、トキの腕をとってベンチのほうへとひっぱっていく。
トキは少年に促されるままベンチに腰掛けた。隣にすこし距離をあけて少年も座る。
「もうすぐだね」
少年はそう言って海のほうへ目をむけた。トキも同じほうを眺める。
なんだか妙なことになった。が、別に悪い気分ではない。
少年のまとう雰囲気には不思議な穏やかさがあり、トキに警戒心を抱かせなかった。
たまにはこんなのもいいかな、と思った。
(つづきへ→)
彼が座ろうとしているそのベンチに、先客がいたのだ。
ぽつんと一人、海を見ているらしい。
こんなことは今までなかった。
早朝散歩で人に会うこと自体が稀なのに、この人目につかない場所に置き去りにされたような古ぼけたベンチに人が座っているところなど、昼間の浜でも見たことがない。
トキはやや距離をおいたところからベンチに腰掛ける先客の背中をながめた。
少年のように見える。
年のころはトキとさほど変わらないような印象。
髪が海風でかすかにゆれている。
どうしたものかと思案していると、ベンチに座る先客がふいに振り向いた。
驚いたトキと、先客の目が合う。
トキが何を言うべきが考えていると、ベンチの少年が先に口をひらいた。
「ごめん、もしかして君の特等席なのかな、ここは」
そう言って、すまなそうな顔をする。
トキは首を横に振ってから、
「そんなことはないよ。誰が座っていもいいんだ、そのベンチは」
と答えた。
ベンチは公共のものだから、トキに占有権はない。
先客がいるのなら、ほかの場所へ行けばすむことだ。
そう思って立ち去るつもりだった。
トキのそういう気配を察したのか、目の前の少年はベンチから立ち上がるとトキのほうへ歩いてきた。
「でも、君はここで日の出を見ようとしてるんじゃないの」
トキの前に立った少年はさらに問う。
トキは何と言うべきか迷った。
しばらく沈黙していると、少年のほうがまた口をひらいた。
「ひとりで見るほうがいい?」
「え?」
「日の出を見るときはひとりがいいのかって聞いてるのさ」
「べつに、そんなことはないけど……」
いままで日の出を見るときに人と遭遇したことがなかったので、考えたことのないことだった。
しかしながら、どうしてもひとりで見たいという感覚はない。
「それなら、ここでいっしょに見ようよ」
少年はトキに言うと、トキの腕をとってベンチのほうへとひっぱっていく。
トキは少年に促されるままベンチに腰掛けた。隣にすこし距離をあけて少年も座る。
「もうすぐだね」
少年はそう言って海のほうへ目をむけた。トキも同じほうを眺める。
なんだか妙なことになった。が、別に悪い気分ではない。
少年のまとう雰囲気には不思議な穏やかさがあり、トキに警戒心を抱かせなかった。
たまにはこんなのもいいかな、と思った。
(つづきへ→)
■ 明け方の散歩道(4)
ほどなくして、まぶしい光が水平線にあわられた。
目を細めてその光を追う。
じわじわとふえてゆく光が、海の上に黄金色の絨毯をひろげた。
太陽が、姿をみせる。
少しずつ、少しずつ。
何度見ても美しい光景だと思う。
このまぶしい光を浴びると、悪夢をふりはらってくれる気がする。
トキは光に満たされた中で、大きく深呼吸をした。
ふと傍らを見ると、少年は膝を抱えた格好で海をじっと見つめていた。
トキの視線に気づいて顔を向け、微笑をみせた。光に照らされたその顔を見る。
整った顔立ち。
「きれいだね」
少年が言った。トキは「うん」と応じて自分も笑顔を見せた。
その後も二人でしばらく海を見ていた。知らない人間と二人並んで景色をながめているにも関わらず、居心地は悪くない。
トキは、傍らの少年について考えた。この町では見かけない顔。もちろん学校でも見かけたことはない。
旅行者だろうか。
少年はポロシャツに細身のパンツという服装。
いかにも普段着といった様子だ。
この土地の人でも日常的に身につけるようなもので、あまり旅行者らしくはない。トキがたまたま知らないだけで、町の住人なのかもしれない。
それよりも気になることがあった。少年の足首にちらりと見えている靴下の柄。日の出を見ている間は気付かなかったが、かわいらしい小花模様なのである。
もしかしたら自分は勘違いをしているかもしれないな、とトキは思った。大きな勘違いを。そう思ってみると、傍らの子の手足が妙にか細い気がしてくる。
「どうしたの、じろじろ見て」
不思議そうに問われて、トキは視線を外した。じっと見ていたことが気恥ずかしかった。
「いや……、ねえ、きみ、この町の子?」
トキの問いに、傍らの子はかすかに笑った。
「昨日から、この町の人間になったばかりなんだ」
「へえ、どこから来たの」
町の名前を言われたが、トキにはわからなかった。この近辺ではないようだ。
「ぼくはトキ。すぐ近くに住んでるんだ。きみの名前は?たぶん同じくらいの年だよね。ぼくは十四なんだけど」
トキは普段の自分からは想像できないほど、するすると語りかけた。いつものトキはかなり人見知りをするほうで、なかなか親しい友人はできない。
この町に来てからも、特に親しくしている人はいない。
学友とも、教室以外の場所で会う約束をしたことはなかった。
トキが本来の、年相応の無邪気さをもって自然に接することができるのは、故郷にいるごくごく親しい人、片手で数え終わってしまうくらいの人だけだ。
トキの問いに、傍らの子は、
「カナメだよ。年は同じだね。よろしく」
と答えて、すっきりとした口元に笑みをうかべた。
目を細めてその光を追う。
じわじわとふえてゆく光が、海の上に黄金色の絨毯をひろげた。
太陽が、姿をみせる。
少しずつ、少しずつ。
何度見ても美しい光景だと思う。
このまぶしい光を浴びると、悪夢をふりはらってくれる気がする。
トキは光に満たされた中で、大きく深呼吸をした。
ふと傍らを見ると、少年は膝を抱えた格好で海をじっと見つめていた。
トキの視線に気づいて顔を向け、微笑をみせた。光に照らされたその顔を見る。
整った顔立ち。
「きれいだね」
少年が言った。トキは「うん」と応じて自分も笑顔を見せた。
その後も二人でしばらく海を見ていた。知らない人間と二人並んで景色をながめているにも関わらず、居心地は悪くない。
トキは、傍らの少年について考えた。この町では見かけない顔。もちろん学校でも見かけたことはない。
旅行者だろうか。
少年はポロシャツに細身のパンツという服装。
いかにも普段着といった様子だ。
この土地の人でも日常的に身につけるようなもので、あまり旅行者らしくはない。トキがたまたま知らないだけで、町の住人なのかもしれない。
それよりも気になることがあった。少年の足首にちらりと見えている靴下の柄。日の出を見ている間は気付かなかったが、かわいらしい小花模様なのである。
もしかしたら自分は勘違いをしているかもしれないな、とトキは思った。大きな勘違いを。そう思ってみると、傍らの子の手足が妙にか細い気がしてくる。
「どうしたの、じろじろ見て」
不思議そうに問われて、トキは視線を外した。じっと見ていたことが気恥ずかしかった。
「いや……、ねえ、きみ、この町の子?」
トキの問いに、傍らの子はかすかに笑った。
「昨日から、この町の人間になったばかりなんだ」
「へえ、どこから来たの」
町の名前を言われたが、トキにはわからなかった。この近辺ではないようだ。
「ぼくはトキ。すぐ近くに住んでるんだ。きみの名前は?たぶん同じくらいの年だよね。ぼくは十四なんだけど」
トキは普段の自分からは想像できないほど、するすると語りかけた。いつものトキはかなり人見知りをするほうで、なかなか親しい友人はできない。
この町に来てからも、特に親しくしている人はいない。
学友とも、教室以外の場所で会う約束をしたことはなかった。
トキが本来の、年相応の無邪気さをもって自然に接することができるのは、故郷にいるごくごく親しい人、片手で数え終わってしまうくらいの人だけだ。
トキの問いに、傍らの子は、
「カナメだよ。年は同じだね。よろしく」
と答えて、すっきりとした口元に笑みをうかべた。